ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

愛妻が眼鏡を壊した日

 あたたかな微睡みからフッと目が覚めて、イスラはゆっくりと瞼を開いた。
 目の前には、端整な美貌――最愛の夫、ノアの寝顔がある。
(……いつ見ても、きれいな顔だわ……)
 我が夫ながら、と付け加えるのも忘れない。眠っているせいでいつもより無防備で、どことなくあどけなくすら見えて、イスラはふにゃりと相好を崩した。王太子付きの近衛騎士であり、主の手足となって暗躍する部隊『東の尾』の一員でもある彼は、その仕事柄、とても神経質な性質だ。人の気配に敏感で、誰かが傍に来ればすぐに察知するし、眠っていてもほんのわずかな物音で目を覚ます。
――人とは常時気を張り続けていられるものなのだろうか。
本人は慣れたものなのか平然としているが、妻としては心配になってしまう。家に帰って来た時くらいリラックスしてほしくて、彼が飲んでいる薬草茶をできるだけ香りの良いものに改良してみたり、お風呂に入れるバスサシェや、枕の下に入れるサシェを作ってみたりしている。
その甲斐あってか、最近ではこんなふうに無防備な寝顔を見せてもらえるようになったのだ。
(……結婚してすぐの頃は、いつだって目が覚めたらいなくなっていたのに)
 イスラが目を覚ました時には、ノアは既に仕事へ行っているか、いたとしても目を覚ましていることがほとんどだった。それがこうして、自分の隣でぐっすり眠っている姿を眺めていられるようになったのだから、大きな進歩と言っていいだろう。
 (まつ毛、長い……)
 黒いまつ毛が呼吸の度にわずかに揺れるのを眺めながら、イスラは夫の珍しい寝顔を堪能する。整った顔だ。凛々しい眉、切れ長の目、高く通った鼻梁、形の良い唇――妻の色眼鏡なしに、これほどまでに美しい男性はそういないだろう。
(……それなのに、『幽霊騎士』なんて……)
 しみじみと不思議な気持ちになってしまう。これほど美しい男性ならば、自然と周囲から注目を集めそうなものなのに、ノアは違うのだ。目を瞠るほどの美貌の持ち主であるにもかかわらず、彼は周囲からその存在を認知してもらえないほど、存在感がないのである。
 この存在感の希薄さは、実はノア本人が意識して気配を消しているからだと知ったのは、結婚してずいぶんと経ってからだ。
 だから彼が普段かけている眼鏡も、その存在感のなさをカバーするための道具だとばかり思っていたのだ。
(まさか眼鏡が、この美貌を隠すためのものだったなんて……)
 隠す、というよりも、『印象操作』だとノアは言っていた。
『王太子付きの近衛騎士、ノア・アルフレッド・チチェスターは眼鏡をかけている』と周囲に印象付けることで、眼鏡を外すと『ノアではない』と誤認させるのだ。普通ならば『そんなまさか』という話だが、普段から異常なまでに存在感のないノアなら可能なのだ。ノアの顔を詳細に覚えているのは、ごく親しい人間のみなのだから。
 つまり、ノアにとって眼鏡は、隠密行動のための道具の一つなのだ。
 ノアが隠している存在感を表に出せば、一気に華やかなオーラが醸し出される。花を付けない雑草が、突如大輪の薔薇に変化するほどの違いである。もはや別人の域と言ってもいい。
 最初に『本当のノア』を見た時、驚いてパニックに陥ってしまったのは、今となっては懐かしい思い出だ。
(だって変わりすぎるんだもの、あなた)
 イスラは眠る夫をジトリと睨みつけながら、心の中で文句を言う。
ノアが『薔薇』に戻る時――それは大抵閨でのことが多い。害のない羊だと思っていた獣と同衾してみたら、実は涎を垂らした腹ペコ狼でした、という笑えない童話みたいな話だ。
 ともあれ、そんなふうに普段から気配を消すために気を張って生活している夫が、自分の前でだけはリラックスして眠ってくれている。
 彼にとって自分が安らげる存在であるなら、これ以上の幸せはない。
 イスラは目を細めてその寝顔を見つめた。
 不意に、ベッドのヘッドボードの上に、くだんの伊達眼鏡が置いてあるのを見つけて、イスラは首を傾げる。
 ノアは寝る前にそれを外すと、必ずベッドの脇に配置されているチェストの上に置く。レンズはガラスでできているから、扱いは慎重にしなくてはならない。幅が短く落ちやすいヘッドボードに置くことなど滅多にしないのに、と考えたところで、昨夜彼がそれを外した瞬間を思い出して、イスラは顔を赤らめた。
(……そうだったわ。ノア様、私を押し倒して、それで――)
 毎日激務に疲れているだろうと、イスラから求めることはほとんどない。求められて拒むこともしないが、例外はある。前回はイスラに月のものが来ていたため、断らざるを得なかったのだ。優しいノアがそれに腹を立てるはずもなく、それどころかイスラを労わるように抱き締めて眠ってくれた。
 その月のものがようやく終わったのが、昨日だったのだ。
 性欲など自分は持ち合わせておりません、という顔をしていたノアだったが、どうやら密かに我慢をしていたらしく、終わったとイスラが言った途端、肉食獣に変化した。
『それならば、今夜は僕のお相手をしていただいてもいいですか、奥様?』
 そう問いかけながら、ノアはイスラの返事も聞かずに華奢な身体を押し倒した。そして邪魔だとばかりに片手で眼鏡を外すと、放るようにしてヘッドボードに置いたのだ。
 昨夜のできごとがまざまざと脳裏に思い浮かび、顔が沸騰したやかんのように熱くなってしまう。イスラは深呼吸をして心を落ち着けると、ヘッドボードに手を伸ばしてノアの眼鏡を取ろうとした。ここに置いてあっては、振動で落ちるかもしれない。
ノアを起こしたくはなかったので、最小限の身動きでソロリソロリと腕を動かしていると、唐突に身体を抱き締められて仰天してしまう。
「おはようございます、イスラ」
「きゃあああああ!」
 甲高い悲鳴を上げた瞬間、咄嗟に動いた手が眼鏡をかすめた。叩かれる形になった眼鏡は、トーンとヘッドボードの上を滑っていき、やがてポトリとベッドの上から姿を消す。落下した先は、サイドチェストの硬い天板だ。
「あああああ!」
「え?」
 カシャーン。
 イスラの悲鳴と、ノアの驚いた声、そしてガラスの割れた音が、同時に寝室に響いた。



「お、どうした、ノア。今朝は眼鏡をかけていないな」

 朝食の場で声を上げたのは、イスラの父である。

ダイニングテーブルについているのは、父と、ノアと、イスラの三人だ。家族の一人である兄のジェイコブは、王宮の官舎で寝泊まりする生活がもう何年も続いているのでここにはいない。

 父の言葉に、ノアがニコリと微笑んで答える。

「ええ、今修理に出しておりまして」

「修理? 壊したのか?」

 意外そうな父の声音に、ノアが困ったように笑い、イスラはしぶしぶ挙手をした。

 ――犯人は自分です。

 無言の自首に、父が納得したように「なるほど、イスラか」と呟いた。

 納得されることに少々ムッとしないこともなかったが、普段の自分の粗忽さを振り返れば致し方のないことである。

「それにしても……眼鏡を取ると、印象が変わるな」

 父がしみじみと婿の顔を眺めて呟くと、周囲で給仕をしていた使用人たちが一斉に「うんうん」と頷いている。

 もちろん、イスラも同様である。

 ノアがものすごく美しい顔をしていることは、ずっと前から知っていたイスラだったが、ようやくそのことを皆が気づいてくれたかと思うと、なんだか嬉しくなってしまう。

 周囲の視線を集めて、ノアは少し居心地が悪そうな顔になった。

「そうですか? 自分ではあまり分からないのですが」

「まあ、そういうものかもしれんな。それはそうと、眼鏡がなくては不都合が多かろう。なるべく早く修理から戻ってくるといいな」

 ノアの眼鏡が伊達だと知らない父にそう心配され、ノアが苦笑を浮かべて「ありがとうございます」と答えている。

 だがイスラとしては、せっかくの美貌を寝室以外でも眺めることができて、非常に眼福である。

(すぐに眼鏡が直ってしまったら、ちょっと残念かもしれないわね)

 そんな不謹慎なことを思いつつ、紅茶を一口飲んだのだった。





 ノアと父が仕事へ出かけてしまったので、イスラは日課である温室の手入れに向かう。この屋敷にある広大な温室は、母の遺したものであり、そこを維持管理するのが自分の使命だとイスラは思っていた。なにより、大すきだった母との思い出が深いそこは、イスラにとっても大切な場所なのだ。

「若奥様、今日もノア様のお茶を作られるのですか?」

 温室へ向かおうと準備をしていると、侍女がニコニコしながら訊ねてきた。

 ノアが常飲しているお茶は、イスラの手作りだ。結婚するまではわざわざ異国から取り寄せていたらしいのだが、この温室にある植物から作ることができると分かったため、イスラが作ることにしたのだ。

「そうね。もうすぐなくなりそうだから、そろそろ作っておかないといけないわね」

 イスラが答えると、侍女が心なしかうっとりとした表情で溜息を吐く。

 今溜息を吐くような場面だっただろうか、と首を傾げて侍女を見つめていると、侍女はハッとした表情になった。

「あ、あらっ! 若奥様の前で溜息など……申し訳ございません!」

「それは構わないけど……どうかしたの?」

 何か不安なことでもあるのだろうかと心配になって訊けば、侍女は顔を赤らめて恥ずかしげに言った。

「いえ、あの……その、ノア様のお顔を、大変恐れながら、今回初めてまともに拝見したのですが……あんなに……あんなに、美しいお方だったなんて……! もう、私、ものすごくビックリしてしまいました!」

 その台詞を皮切りに、周囲に侍っていた他の侍女たちも、一斉に黄色い声を上げ始める。

「私も! 私も、驚きましたわ、若奥様!」

「あれほど美しい殿方が存在するなんて……!」

「普段、前髪と眼鏡で隠れてしまっているから、全然気づきませんでしたが、まるで天使とはかくや、という美貌……!」

「天使だなんて、あれはもう軍神マルースそのもの!」

 侍女たちはうっとりとした口調で、口々にノアを誉めそやす。まるでノアが劇場の俳優か何かにでもなったかのような騒ぎだ。

 頬を染めて恍惚とノアの美しさを称賛する彼女たちを、半ば呆気に取られて眺めていたイスラだったが、その胸になんだかモヤモヤとしたものが湧いてきて、むっと口の端を曲げる。

(あ……あら……? どうして私、腹を立てているのかしら……)

 先ほどまで、ノアの美貌を自分以外に認められることを誇らしく嬉しいと思っていたはずなのに。

 何故だろう、と内心で首を捻っているイスラを他所に、興奮してきたのか、ノアを称賛する侍女たちの声がどんどんと大きくなっていく。

「ああ、本当にあんなに素敵な方にお仕えできるなんて、夢のようですわ!」

「本当に!」

(……いやいや、あなたが仕えているのは私でしょう……)

 大まかに言えば確かにノアも彼女らの主ではあるが、直属の主は女主人であるイスラなはずだ。男性であるノアには専用の近侍がついている。

 楽し気な彼女たちに水を差すのも了見が狭いだろうかと、心の中でついツッコミを入れてしまうイスラである。やはりまだ胸のムカムカは治まっていない。

「ノア様はお茶がお好きですから、私、今度実家の農園から取り寄せます! ウチの実家はお茶を栽培していて、いろんな種類の茶葉が……」

 それを聞いた瞬間、イスラは大声で叫んでしまった。

「ダメよ! ノア様のお茶はわたくしが作るの!」

 女主人の声に、侍女たちはハッとなって口を噤む。

 顔を真っ赤にして握り拳を固めているイスラの姿に、皆がポカンとして、それから孫を見守る好々爺のような笑顔になった。

「まあ、若奥様ったら! ええ、もちろん、ノア様のお茶をお作りになるのも、淹れて差し上げるのも、若奥様のお務めですわ」

「私ったら、差し出がましいことを言ってしまいました! 申し訳ございません!」

「ふふふ、ご心配なさらずとも、ノア様は若奥様のものですわ!」

 意味深な笑顔でそう宥められ、イスラは更に顔を真っ赤にする。

「なっ……なっ……!」

 ――まるで自分が侍女相手にヤキモチを焼いているようではないか。

 そう憤慨しかけて、実際にその通りだったので開きかけた口をまた引き結ぶ。その代わりに頬を膨らませると、侍女たちはまたクスクスと笑って、宥めるようにイスラの世話を焼き始めた。

「若奥様、温室に行かれるのでしたら、陽射し除けにお帽子を被らなくては」

「あ、土いじりもなさるでしょうから、手袋も要りますわね」

「あら、御髪も邪魔にならないように結い直しましょうか」

 ワラワラと周囲に群がられ、イスラはむっつりとしつつも、彼女らにされるがままになる。いずれにしても温室に行く準備はしなくてはならない。

(……他の人にノア様の美貌を褒められるのが、こんなにイヤな気分になるものだったななんて……!)

 ドレッサーの前に座らされ、髪に櫛を通されながら、イスラはしみじみと思った。

 確かに、この感情はヤキモチと呼んでいいものだろう。

 ノアの美しさを知るのは自分だけでいいのだという独占欲なのだから。

(……まして、ノア様のお茶まで……!)

 ノアが飲むお茶は、イスラが作る特別なものだ。イスラがノアのために、丹精を込めて作っている。実はそのお茶は苦いのだが、ノアはある目的のために毎日仕方なく飲んでいる。その些細ではあるが、確かな苦痛を緩和するために、イスラなりに工夫を凝らして、できるだけ飲みやすいように配合してあるのだ。

 そのことを、イスラは誇らしく思っていた。妻としてノアのためにできることの一つだからだ。

(……そうよ。ノア様の妻は、私なのだから!)

 何人たりとも、自分とノアの間に入る者などあってはならないのだ。

 ヤキモチを焼いて何が悪い。自分はノアに対して独占欲を抱いていい、唯一の存在なのだから!

 イスラはフン! と鼻息を荒く吐き出すと、侍女たちをジロリとひと睨みして言った。

「――予定を変更するわ! 今から温室ではなく、街へ行きます!」



 馬車が停まり、ドアの施錠が開かれる音がして、ノアは居住まいを正した。

 一人の空間ではだらしなく足を投げ出して座っていたが、婿の身としてはできるだけ品行方正な姿を使用人にも見せていたいところである。

(……とはいえ、今日も疲れたな……)

 王太子の人使いの荒さは今に始まったことではないが、それでもたまには休みが欲しいと思ってしまう。特に、自分はまだ新婚の部類に入るのだから、少しくらい融通を利かせてくれてもいいのではないだろうか。

 不満に思えど、妻の兄でもある直属の上司ジェイコブが自分以上にこき使われているのを見ると、何も言えないのが現状である。ジェイコブのことがお気に入りの王太子は、片時も放そうとしないので、義兄は四六時中王太子の世話を焼いていないといけないのだ。

そう言えば、そのジェイコブが、今日は外に遣いにだされていた。珍しいことがあるものである。

 ふう、と溜息を吐いて屋敷に入ると、夜半であるにも関わらず、居間の灯りが点いていた。

(……義父君が起きておられるのか?)

 珍しいなと思っていると、出迎えた家令が「ジェイコブ様です。今日は珍しくお戻りになられまして」と言ったので、瞠目する。

 何かあったのだろうかと、急いで居間に入ると、そこにはジェイコブとイスラの兄妹がソファに座り談笑している姿があった。ジェイコブはノアの姿に気づくと、「おう」と太い腕を上げて笑顔を見せる。

「ようやくお帰りか、我が義弟よ」

「……ただいま戻りました。珍しいですね、あなたがこの屋敷に戻られるなんて」

 ノアの言葉に、ジェイコブは大仰な仕草で両肩を上げた。

「殿下のお傍を離れられる滅多にない機会だ。仕事帰りに、たまには実家に顔を出したところで罰は当たらんだろう」

 ウンザリとした口調に、この真面目な男でも、たまには息抜きをしたくなるのだなと思って笑みが漏れる。

「おかえりなさい、ノア様」

 大男の脇からひょこっと小さな顔を覗かせたのは、愛妻イスラだ。

 自然と相好を崩すノアは、自分の表情をジェイコブが目を丸くして見ていることに気がつかない。

「ただいま戻りました、イスラ。まだ起きていたのですね。僕を待たず、先に眠っていていいのですよ」

 寄り添う妻を腕の中に抱き締めながら言うと、イスラはちょっと唇を尖らせた。

「ノア様のお顔を見たかったんですもの」

 そのかわいい理由に、ノアは更に表情を緩ませる。

「僕は嬉しいですけど、あなたが無理をするのは心配です」

「無理なんてしていませんわ! ノア様の方こそ、毎日お忙しそうで、心配ですわ!」

 新婚夫婦のイチャイチャとしたやり取りに、ジェイコブがげんなりとした口調で呻いた。

「そういうのは二人きりの時にやれ」

「あら、お兄様は羨ましいのでしょう」

「……お前も言うようになったものだ。これもノアの妻になったゆえか」

 人見知りで口下手の妹がイヤミの応酬をするのに、ジェイコブが感慨深い顔になる。

 どういう意味か、と問い質したいところだが、ノアは敢えて笑顔で沈黙を保った。ここの兄妹の喧嘩に割って入るとバカを見るのは経験済みだ。喧嘩をしていても結局のところ妹を溺愛しているこの兄は、すぐに妹に屈して猫かわいがりを始めるので、いつの間にか仲裁しようとした自分が悪者のようにされてしまうのだから。

 そんな極度のシスコンであるジェイコブが、ニヤニヤとノアの顔を眺めて口を開く。

「それにしても、ノア、お前の方もイスラと結婚してずいぶんと変わったなぁ」

「……そうですか?」

 自分ではよく分からないので、ノアは首を捻った。

 ジェイコブは「そうだとも」と頷く。

「雰囲気が柔らかく、艶が出たって評判だぞ。あの『幽霊騎士』に色がついたという奴までいる」

「……色……」

 もともとついているはずなのだが。

 納得がいかないが、隠密として活動しなくてはならない自分にとって、存在感がないということは誉め言葉でもあるから、複雑な心境である。

「その上、今日は眼鏡までしてこないから、お前のそのきれいな顔に気づいたらしい女官たちが大騒ぎしていたぞ。『あの美形な騎士はいったい誰だ』と聞き回っていたそうだ。騎士団の連中は皆、そしらぬフリを決め込んでいたので、それがお前だとはまだ判明していないだろうが。いやはや、今後職場では、そのノロケた顔は眼鏡でちゃんと隠すことだ」

 ジェイコブに指摘され、ノアは「あっ」と狼狽えた。そのせいで、かけていない眼鏡を中指で押し上げる仕草をして、更に変な汗をかく。

イスラに眼鏡を壊されたことをこの場で暴露すると、また彼女が兄に叱られてしまうだろう。ノアはなんとも思っていないのに妻が叱られるのは忍びないし、兄とは言え他の男が彼女を叱るという図は見ていてむかっ腹の立つものでもある。

なんとかその話題から逸らさなければと考えを巡らせていると、小さな手がにゅっと伸びてきて、ノアの目の前に差し出された。

 え、と視線を下げれば、愛妻の可愛い顔がある。

 ムン、と唇の両端を引き結ぶ、ちょっとふてくされたような表情がまたたいそう可愛い。

 思わずその顔にキスをしそうになって、ジェイコブの目があることを思い出し、ハッと姿勢を正した。

「ノア様、これを!」

 しびれを切らしたようなイスラの声に、ノアはようやく彼女の手の上に何かが乗っていることに気がついた。うっかり妻の顔しか見ていなかった。

「ん? 眼鏡?」

 イスラの手の上にあったのは、今朝壊されたはずのノアの眼鏡だった。割れたレンズはきれいに直り、以前と寸分違わぬ状態だ。

 修理にしばらくかかると言われていたのに、何故ここにあるのだろう。

不思議に思いつつそれを受け取ろうとすると、イスラの手がそれよりも先に動き、眼鏡をノアにかけてくれた。

 レンズには度が入っていないので、かけても視界はそんなに変わらない。

 眼鏡をかけたノアの顔を下から覗き込むようにしていたイスラは、更に手を伸ばしてノアの前髪を触って顔の前に散らすと、満足そうににっこりと笑った。可愛い。

「ふふっ! これで完璧ですわ!」

 妻の行動の意味は分からないが、どうやら眼鏡を早く修理してきてくれたのだろう。

「ありがとうございます、イスラ。似合いますか?」

 完璧、と言ってくれたので、彼女はきっと自分の眼鏡をかけた姿が好きなのだろうと思って言った台詞に、イスラは意外にも首を横に振る。

「いいえ、ノア様は眼鏡が似合いませんわ。眼鏡をかけていない方が素敵」

 拍子抜けする回答に、ノアが目をパチクリとさせていると、イスラは口を尖らせた。

「でも、眼鏡を取ってしまうと、ノア様がすごく格好良いのが、他の人にもバレてしまいますでしょう? わたくし、それが嫌なんです。ノア様が素敵なのは、わたくしだけが知っていればいいのです!」

 顔を赤らめながら吐露する妻は、言ってしまった後、ハッと気づいたかのような顔で視線を泳がせ、最後に恐る恐るこちらを見上げる。

「あ……あの、わたくし、狭量な妻かしら……?」

――ダメだ。もう我慢ならない。

衝動を抑えようとしばし天を仰いだものの、結局辛抱堪らず、ノアはガバリと妻の華奢な身体を抱き締める。

「イスラ……! ああ、可愛い……可愛い……どうしてそんなに可愛いのですか、あなたは……!」

「えっ! えっ? ノア様?」

「ああ……可愛い……妻が可愛い過ぎて困る……」

 良い匂いのする柔らかな身体をぎゅうぎゅうと抱き締め、小さな頭に頬ずりをして呟いていると、背後でウンザリとした声が聞こえた。

「俺は王宮に帰る」

 ここより王宮の方がマシだとぼやきつつ、職場へと帰っていく義兄を、ノアは愛妻を盛大に愛撫しつつ手を振って見送る。

「ジェイコブ、また明日」

「こき使ってやるからな、この野郎!」

 忌々しげな舌打ちと共に捨て台詞を吐いた上司に苦笑いをしつつ、ノアは妻の身体を横抱きに抱え上げた。

「きゃ……!」

「さ、夜も遅い。ベッドに参りますよ、奥様」

 ベッドに入るが、眠るわけではないことを、イスラは察したようだ。

 白い頬にサッと朱が走る様子に、ノアは目を細める。可愛い。

 仕事は辛いが、妻が可愛いので頑張れるというものだ。

 腕の中の妻の重みを愛しく感じながら、ノアは夫婦の寝室へ足早に歩を進めたのだった。

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