ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

獣の求婚

 ジェラルドは今、アスヘルデンへ向かう汽車に乗っていた。
 アルベール逃亡から一年が経ち、先日サシャ王に第一王子が誕生した。王の鉤爪を辞めたジェラルドはこれまでの功績を認められリュシドール伯爵位を授与され、王の右腕として忙しい日々を過ごしている。
 本来ならば、月の半分は王宮に詰め、残りはアスヘルデンで過ごすのだが、今回はまるっと一ヶ月、王宮にいた。
 だが、午前中に届いた執事スタンリーからの電報に仕事どころではなくなった。取るものも取りあえず、引き留める声をすべて無視して、汽車に飛び乗ったのはつい先ほどのことだ。
【奥様がお倒れになられました】
 目の前が一瞬にして真っ白になった。
 いったい、彼女の身に何が起こったというのか。
(――エステル、無事でいてくれ……っ)
 一昨日、エステルから届いた手紙には、体調のことは書かれていなかった。
 ジェラルドは正式な内示が下ると、エステルに手紙を書いてくれるよう頼んだ。
「手紙ですか?」
「エステルの気が向いたときだけでいいんだ。今日は何をしたとか、こんなことがあったとか、そういうたわいのないものでいいっ」
 もちろん、その中にジェラルドへの想いを綴ってくれたりしたら最高だ、とまでは言えなかった。
 自分には償いきれないくらいの過去がある。
 一緒に屋敷で暮らすことが当たり前になった今も、時々夢ではないのかと思うことがある。もう、ありふれた日常がどれだけの幸せに包まれているか、わからないほど愚かではない。
 再び手に入れたものは、何ものにも代えがたいほど尊く愛しいものだ。
 情熱的にとまではいかないが、肌も合わせている。
 それでも、ジェラルドは不安だった。
「――どうだろう?」
 ジェラルドが怖々答えをうかがう。
 深海色の瞳を少しだけ大きくさせていたエステルは「わかりました」と微笑んだ。
 承知してくれたことに胸をなで下ろしながら、彼女に受け入れられている幸福を噛みしめた。
 期間中、一通届けばいいと思っていたエステルからの手紙は、五日に一度という思いがけない頻度で王宮に届けられるようになった。
 内容は、ジェラルドを気遣う言葉からはじまり、エステルや屋敷の近況、そしてジェラルドの労る言葉で締めくくられている。一枚半の手紙だ。
 エステルらしい涼やかさを感じる綺麗な文字は、草原を吹き抜ける春風のような癒やし効果をくれた。王の雑務を押しつけられた気がしないでもない勤務の唯一の楽しみと言っていい。
 けれど、欲を言えば少しだけ寂しい……いや、嘘だ。ものすごく物足りない。
 気が向いたときだけでいいなんて、格好つけてみたけれど、心はエステル不足でからからに干上がっていた。
 一文だけでもいいから、せめて、ジェラルドをどう思っているかを書いてくれれば。離れて暮らすことへの気持ちを知りたい。
 エステルは自分と会えなくても平気なのだろうか。
 ジェラルドは必ず返事の手紙にはどれだけエステルを恋しく思っているか、エステルに触れたいと常々感じているかを書いた。愛の言葉を惜しみなく綴り、会えない寂しさを手紙に込めるのだが、エステルの手紙は形式張ったものばかり。
 来ないよりは断然いい。彼女が自分を気遣ってくれるだけで、幸せだ。
 ――なのに、人とは強欲だ。
 味わった幸せに慣れてしまえば、それ以上の甘美さを欲するのだから。
 どうして、こんな面倒くさい任を受けてしまったのかとすら思ってしまう。側にさえいれば、不安になってもすぐ気持ちを確かめることができる。華奢な身体を抱き寄せ、愛を囁き、彼女からも愛の言葉を受けることができるのに。
 スタンリーからの電報は、愛に飢えた獣を暴走させるのに十分だった。
(俺はまだ信頼に足る男になれていないということなのか)
 甘えることもできないのなら、そういうことなのだろう。
 思い返せば、あの事件以降も、ジェラルドは忙しく動き回っていた。クロウ隊の隊長として、新たに手にする爵位と、それに付随する任の準備。側にいたいと思っていても現実はままならない。
 サシャ王に王子が誕生したことで、王宮はまた新たな秘密を抱えることになる。ジェラルドの一年間は目まぐるしかった。
 それでも、エステルはいつだってジェラルドを支え、応援してくれた。
 時間の許す限り、エステルとの会話を大事にしているつもりだった。
 仕事の内容は語れないとしても、できる範囲で自分の状況を彼女に伝えていた。過去の過ちから学んだことを、ジェラルドなりに生かしてきたつもりだった。
 二度とエステルを手放さないために。
 けれど、現実はどうだ。
 エステルの優しさに、自分はまた無意識に己を甘やかしていたのかもしれない。
 窓に肘をついたまま、ぎりっと親指の腹を噛んだ。

 己の不甲斐なさに、苛立ちが止まらない。

 この体たらくでは、エステルに結婚を申し込めるはずもなかった。

 上着の中には、以前より用意していた指輪が入った箱が入っている。エステルに相応しい男になれたと感じたとき、渡したいと思っているものだ。

 しかし、今はそんなことよりもエステルの容態が気にかかる。

(どうか無事でいてくれ……っ)

 はやる気持ちを感じ取ったように、汽車はアスヘルデンへ向かっていた。

 サシャ王の推進する近代化の恩恵は、着実に国に浸透している。内陸部に敷かれた鉄道により、交通の便は格段によくなった。以前なら、馬車で三日はかかった道のりが、わずか半日で行けるようになったのだ。

(早く、早く――)

 やがて車窓の景色が見慣れた風景になると、ジェラルドはいても立ってもいられなくなり、ついには席を立っていた。

「すまない。……すまない、通してくれないか」

 人をかき分け、ジェラルドは出入り口まで進む。到着と同時に汽車を降りるつもりだからだ。

 やがて、汽車が駅へと入る。扉が開いた瞬間には、ジェラルドは外へと飛び出していた。真新しい駅舎を駆け抜け、時折、人とぶつかりながら、外へ向かう最中――。

「お義兄様っ!?」

 聞き慣れた愛しい声に、ジェラルドはハッと後ろを振り返った。

 その直後、大きく目を見開き、愛しい人へと手を伸ばした。

 腕の中に掻き抱き、抱きしめた存在が夢でないことを確かめた。

「エステル!? エステルなのか!?」

「お……義兄様、やっぱり戻ってらしたのですね。あぁ、どうしよう」

「身体は? 倒れたと聞いて飛んで帰ってきたんだ。どうして屋敷で寝ていないんだ。歩いていたら駄目だろうっ!? 一人で来たのか? 供は? もし何かあったらどうする。スタンリーは何をしているんだ。あぁ、クソ!」

「お、お義兄様。落ち着いてください」

「とにかく、屋敷へ戻ろう!」

 肩を抱いて歩き出そうとするジェラルドを、エステルが押しとどめた。

「……スタンリーの打った電報は嘘です。私はどこも悪くありません。きっとお義兄様なら帰ってくるのではと思い、急いでやってきたのですが、正解でしたわ」

「嘘? なぜ、彼はそんな嘘をつくんだ」

「それは……」

 怪訝な顔をすれば、エステルが気まずそうに言葉を濁した。

「エステル、頼む。言ってくれ」

 胸騒ぎに追い立てられるようにジェラルドは話を促した。

「私が……、さみ……そう……るからと」

「もう少し大きな声で」

 エステルはなぜか恨めしそうにジェラルドを見上げた。その頬はわずかに赤らんでいる。

「私が、寂しそうにしているからですっ」

 言って後悔したのか。エステルは「あぁ……、だからもうっ」と両手で顔を覆った。

 いじらしくも愛らしい姿を食い入るように見ながら、ジェラルドは今聞いた言葉を何度も頭の中で繰り返していた。

 私が寂しそうにしている? つまり、エステルが寂しいのは、ジェラルドに会えないから?

 こみ上げる歓喜に声も出せずにいると、エステルはそれを呆れていると受け取ったのか、ますます泣きそうな声で言った。

「お義兄様はお仕事でお忙しいから、できるだけ負担にならないようにと心がけていたのです。ですが、王宮から聞こえてくるお義兄様のお話にどんどん不安になってきて。その上、今回は期間が過ぎてもお戻りにならないから、私――……」

「ま、待ってくれ! 俺の話とは?」

「お義兄様見たさの貴族令嬢たちが大勢いるというお話ですっ。お茶会や夜会のお誘いをたくさん受けているのでしょう?」

「どこから聞いたんだ?」

「ノーランド様からですっ」

 涙声での文句に、ジェラルドはいよいよたまらなくなった。

 エステルへの愛が溢れすぎて、どうしていいかわからない。

 主思いのスタンリーは、エステルの不安を解消するべく、一計を案じたのだ。同時に、ジェラルドの愛を確かめた。自分はまんまの執事の策にはまったわけだ。

(とりあえず、抱きしめたいっ)

 心の赴くまま、深く強くエステルを腕の中に抱き込んだ。大好きな白金色の髪に顔を埋め、エステルの香りを堪能する。

「愛している」

「もう、お義兄様ったら! 私の話を聞いていらっしゃいますの!」

「聞いているよ。エステルが好きすぎて死にそうだ」

 そうだった。なぜ失念していたのだろう。

 自分の気持ちを表に出すことを抑圧されてきたのだ。エステルはいつだって他人を気にかけ、優しさを注ぐ。自分の気持ちを我慢するのが当たり前になっているのだ。

「手紙は読んでくれていただろう。俺はエステルしか欲しくないんだ」

「それでもっ、……不安……なのです」

 お義兄様は素敵だから、と告げた小さな声にたまらなくなった。

 ジェラルドにとって、嫉妬は嫌気のさすものでしかなかった。けれど、エステルからぶつけられるのは、なぜこんなにも愛おしく感じるのか。

 束縛されて嬉しいなんて知らなかった。

(もう渡そう)

 今でなくて、いつ渡すというのか。

「エステル」

 ジェラルドは小声で呼びかけ、腕を解いた。不安そうな顔に微笑み返し、上着にしまっていたものを取り出すと、おもむろに跪いた。

「愛しいエステル。俺のプリセス。どうか結婚してほしい」

 掲げた指輪に、エステルの目がみるみる大きくなった。

「結婚という誓いで、俺を永遠に縛りつけてくれないか」

「お義兄様……」

「エステルさえいてくれればいいんだ」

 真心と目一杯の愛を込めて、エステルを一心に見つめた。

「――私だけ?」

 ぽつりと呟き、エステルが微笑を浮かべる。そうして、そっと腹部に手を当てた。

「――え……」

 今度はジェラルドがじわじわと目を見開く番だった。

「まさか……?」

「――今度は喜んでくれます……きゃあっ」

「やったな!!」

 辺りが振り返るほどの大声を上げ、ジェラルドがすくい上げるようにエステルを抱きしめた。

「あぁ……っ、夢じゃないんだな!」

「お義兄様っ!?」

「大事にする。エステルも産まれてくる子も全身全霊で愛し守ると誓う。改めて乞わせてくれ。俺と結婚してほしい」

 駅舎で始まったプロポーズに、エステルはもちろん、通行人たちも驚愕の表情になっているが、そんなことはどうでもいい。

 ジェラルドにはエステルの返事だけが大事なことだからだ。

 深海色の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。

「喜んで、お受けいたしますわ」

 そう告げたエステルは、ジェラルドに抱きついた。

 とっさに受け止め、そのまま強く抱きしめると、辺りからは二人を祝福する声で沸いた。

 後に、王宮へ戻ってきたジェラルドが真っ先のノーランドを殴りつけたのは、言うまでもない。

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