ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

妄想紳士の夏の新作

 ──サーシャがユーリと結婚して、そろそろ三か月が過ぎようとしていた。
 窓から降り注ぐ日差しはいつの間にか夏のものとなり、バロウズ家での生活にもようやく慣れてきた頃のことだった。
「……あ、いい匂い……」
 正午が近づくにつれて、屋敷には美味しそうな匂いが漂いはじめる。
 二階にある部屋で一人読書をしていたサーシャにもその匂いが届き、ふと柱時計に目を移すと、十一時半を回ったところだった。
「もうこんな時間なのね。ユーリ…、まだお仕事中かしら。今日は、お客さまは来ていないはずだけど……」
 昼食まではまだ時間があるが、ユーリは大体十一時前には執務を切り上げてこの部屋に戻っている。来客はないはずだから、いつもより少し遅い。
「少し様子を見てこようかしら……」
 サーシャは小さく呟き、ソファから立ち上がる。
 いよいよバロウズ家を継ぐこととなり、最近のユーリはとても忙しそうにしていた。しかし、妻としては彼の身体が心配なので、こういうときはサーシャのほうから彼の様子を見に行くことにしていた。
 ──お仕事は大事だけど、休憩だって必要だもの……。
 サーシャは部屋を出て一階に下りていく。
 美味しそうな昼食の匂いが一層強くなってお腹が鳴りそうになったが、そのまま長い廊下を進む。執務室の前で足を止めると、遠慮がちに扉をノックした。
 ──コン、コン…。
 ところが、いくら待ってみても応答がない。
 耳をそばだててみたが執務室からは物音一つせず、人がいるかどうかさえ定かではなかった。
「……ユーリ?」
 サーシャは躊躇いがちに扉を開ける。
 忙しそうなら一声かけて出ていくつもりだったが、彼の姿は見当たらない。窓側のソファにも、その真向かいに置かれた執務机にもユーリの姿はなかった。
「あら…?」
 だが、何歩か進んでぐるりと部屋を見回し、もう一度執務机のほうに目を向けたところであることに気がつく。
 執務机の後ろの扉が僅かに開いていたのだ。
 ──もしかして、奥の部屋にいるのかしら……?
 執務室には、もう一つ奥に続く部屋がある。
 もとは別々の部屋だったのを、一年ほど前に扉をつけて行き来できるようにしたらしい。現在そこはユーリの趣味のための部屋となっていて、執務が一段落すると、時間を忘れて過ごしてしまうこともあるようだった。
 サーシャは迷いながらも執務机のほうに向かい、後ろに回り込んで僅かに開いた扉の前で立ち止まる。
 ユーリの趣味については自分もよく知っているが、この部屋には数えるほどしか入ったことがない。サーシャは緊張気味に扉を開いて中の様子に目を凝らした。
 昼間にもかかわらず、部屋は黒いカーテンが閉じられたままで薄暗い。
 奥のほうでぼんやりとしたオイルランプの灯りを感じ、さらに目を凝らすと、灯りのすぐ傍で人影が揺らいだ。その見慣れた後ろ姿がユーリだとわかり、サーシャはパッと笑顔になった。
 ところが──、
「……、……ふふ」
「……っ!?」
 密かな声が耳に届いた途端、サーシャは固まってしまう。
 その声は紛れもなくユーリのものだったが、どうも様子がおかしい。
 この部屋にはさまざまな衣装を身に纏った何体ものマネキン人形が所狭しに置かれている。知らない者がいきなりこの光景を見れば腰を抜かしても不思議はなく、サーシャもはじめて来たときは本物の人間と間違えて悲鳴を上げてしまったほどだ。
 だが、さすがに今はこの程度で驚いたりはしない。
 思わず固まってしまったのは、ユーリが目の前のマネキン人形に笑いかけたように聞こえたからだった。
 ──聞き間違い…かしら……。
 サーシャは取っ手を掴んだままその場から動けなかった。
 声をかけることに躊躇いを覚え、息をひそめて彼の背中をじっと見つめていた。
「……やっぱり似合う。サーシャ、かわいいね……」
「──ッ」
 薄暗い部屋に、ひっそりと囁く声が響く。
 サーシャは顔を引きつらせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
 それからしばし無言の時が流れたが、ユーリは不意に身じろぎをして目の前のマネキン人形に手を伸ばした。
「あ、ココ…、ちょっと違うな。もう少し…、これくらい角度をつけたほうがいいかもしれない……」
 ぶつぶつ呟き、首を傾げる様子にサーシャはハッと我に返った。
 そのまま後ろに下がって執務室まで戻り、音を立てないように細心の注意を払いながらそっと扉を閉める。速まる鼓動を抑えるため、サーシャは自分の胸に手を当てて深呼吸をした。
 ──い…、今のは見なかったことにしよう……。
 私的な時間は誰にでも必要だ。
 勝手に立ち入ったのはサーシャのほうで、ユーリも驚かせようとしたわけではないのだ。あんなところを見られたと知れば彼だって気まずい思いをするだろうし、自分もどんな顔をすればいいのかわからない。
 とにかくここを出なければと、サーシャはわたわたしながら廊下に出る扉に向かおうとした。
「──あれ、サーシャ?」
「……ひぁっ」
 しかし、執務机から数歩ほど進んだところで後ろの扉が開く。
 同時に名を呼ばれて、サーシャは驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ごめん。驚かせてしまった?」
「ユ…、ユーリ……、あの……っ、えぇ、全然平気よ。ちょっと大袈裟に声が出てしまっただけ」
「……ならよかった。来ていたんだね。気づかなかったよ」
「え? え、えぇ、そろそろお昼だからと思って……。で…、でも、いないようだったから部屋に戻るところだったの」
「あぁそっか。今日は早く仕事が終わったから、向こうの部屋で作業をしていたんだ。少しのつもりだったんだけど、もうそんな時間になってしまったんだね」
「そ…、そうだったの」
「うん。……あ、そうだ」
 サーシャが相槌を打つと、ユーリはにっこり頷く。
 けれど、ふと何か思い出した様子で彼はちょんちょんと自分の腕を指差す。
 サーシャがその指の先に目を向けると、彼は腕にかけていた布を大きく広げてみせた。
「サーシャ、これ、どうかな?」
「え…?」
「新しい侍女の服を作ってみたんだ。今はエプロンの下は黒いドレスだけど、こういう明るい色も悪くないと思ってね。しっかりした生地だけどすごく軽いんだよ。頭にはフリルのついたいつものカチューシャをつけてさ、歩くたびにスカートと同じ動きでふわふわ揺れるんだ」
 そう言って、ユーリは広げた衣装を左右に揺らしてみせた。
 嬉しそうに顔を綻ばせて説明する彼の様子に、サーシャは無意識に眉根を寄せる。彼が手にしているのは、赤系統の暖色を基調とした細かなチェック柄のドレスと、レースのフリルをふんだんにあしらったエプロンだった。
 ──なんだ、侍女の服……。
 自分のために用意してくれたのかと思ったら、そうではなかったみたいだ。
 内心がっかりしながら、サーシャは目の前のドレスをじっと見つめた。
 この家の侍女には、ユーリの考案した制服が支給されているのだ。どうやらそれを一新する気でいるようだが、少し見ただけでとても丁寧に作られたものだとわかる。彼の顔を見れば自信作だということは聞くまでもなく、そう思うと侍女たちが羨ましかった。
 しかし、そう思って見ると若干気になる点が出てくる。
 この屋敷には年若い侍女から年配の侍女までいるので、少々かわいすぎる気がしないでもない。皆が喜ぶかどうかは、さすがに自分には判断できそうになかった。
「すごく素敵だと思うわ。特に若い侍女は喜びそう。でも…、一応皆に聞いてから決めたほうがいいかも……」
「皆に? どうして?」
「あ…、えっと、私より、実際に着る人の意見のほうがずっと参考になると思って。着心地とか…、すごく大事なことだろうから……」
 素敵だと思うのは、あくまでサーシャの感想だ。
 現在のものは黒いドレスで人を選ばない色味だから、侍女たちの評判がとてもいい。人それぞれ好みがあるだろうし、皆の意見のほうを尊重してほしいと思ってのことだった。
「……あぁ、そういうことか」
 ユーリはしばし不思議そうにしていたが、ややあって納得したように呟く。
 今ので伝わっただろうか。顔を上げると、彼はおかしそうにクスクス笑ってサーシャに近づいてきた。
「ごめん、僕の言い方が悪かったね。これはサーシャに作ったものなんだ」
「……え…、私……?」
「そう、サーシャに着てもらいたくて」
 言いながら、ユーリはもう一度ドレスを広げてみせる。
 ぽかんとしていると、彼はおもむろにサーシャの手を取った。
「サーシャ、ソファに座ろうか」
「え、えぇ」
 サーシャはぎこちなく頷き、促されるままソファに向かう。
 窓の近くに置かれたソファに座ると、隣り合うようにしてユーリも腰かけ、手にしていた侍女の服に目を移す。少ししてサーシャを食い入るように見つめ、何度か同じ動きを繰り返したあと、彼は満足げに頷いて蕩けるような笑みを浮かべた。
「やっぱり似合う。サーシャ、かわいいね」
「……あ、ありがとう」
 まだ袖を通してもいないというのに、ついお礼を言ってしまった。
 けれど、ユーリの想像力は人一倍逞しい。おそらく彼の頭の中で、サーシャはその侍女の服を着ているのだろう。
 ──そういうことだったのね……。
 先ほどの部屋でマネキンに話しかけていたのはそういうことだったのか。
 確かに、彼はあのとき『サーシャ』とマネキンに話しかけていた。あれはやはり聞き間違いではなかったのだ。
 すべてを理解するや否や、サーシャはほっと息をつく。
 こんなふうに思うのは変かもしれないが、他の誰でもなく自分のために作ってくれたものだということが嬉しかった。
「あのさ、これ…、まだ少し手直しが必要なんだ。すぐにとはいかないけど、完成したら着てくれるかな」
「もちろんよ。楽しみね」
「……ッ、あ…、じゃあ、早く完成させないとね……っ」
 ユーリは途端に目を輝かせて大きく頷く。
 やる気に満ちた顔がおかしくてならない。サーシャも笑顔で頷くと、彼は感極まった様子で目を潤ませ、いきなり抱き締めてきた。
「あ…、……ン」
 熱い息が耳にかかって思わず変な声が出てしまう。
 顔を赤くして身を捩ると、ユーリはサーシャをさらに強く掻き抱いた。
 首筋に唇を押し当てられ、ぴくんと肩を揺らす様子に彼は小さく笑みを零す。今度は耳たぶを甘噛みしながら、吐息混じりに囁いた。
「サーシャ、好きだよ……」
「ユー…リ…」
「僕は、幸せ者だね。これから一生君の服を作ることができるんだから。これほど嬉しいことはないよ」
「……ん」
「愛してる…。サーシャだけ…、他の誰の服も作らないよ……」
「……っ」
 砂糖菓子のように甘い声。
 サーシャは咄嗟に彼の肩に顔を埋める。
 心の中を読まれたようで無性に恥ずかしかった。
 新しい侍女の服だと聞いて、本当は羨んでいたのを彼は気づいていたのだろう。そんな必要はないのだと言ってくれているのがわかって涙が零れそうだった。
 ──私だって好き……。ユーリの作った服なら、なんだって着るわ……。
 侍女に修道女、町娘から王女まで、サーシャは彼の手で作られた衣装を毎夜身に纏う。
 結婚してすぐの頃は戸惑うこともあったけれど、今はそれさえ懐かしい。
 たくさんのユーリと出会って、そのたびに彼と恋に落ちる。こんな経験は彼でなくてはできなかったはずだ。
「……いい匂いがしてきたね。そろそろ食堂に行く?」
 彼が耳元でそっと問いかける。
 ──そう言えば、そろそろ昼食の時間だからと様子を見にきたんだったわ……。
 頭の隅で思いながら、サーシャは彼の首にきゅっと抱きついた。
 なんだか離れがたい。あと一分でいいからくっついていたい。
 きっとユーリも同じ気持ちだったのだろう。屋敷中を漂う美味しそうな匂いにサーシャのお腹が小さく鳴るまで、彼の腕が離れることはなかった──。

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