ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

夫婦になっても恋してる

 シチリアの空は今日も、藍で染めたリネンのようにからりと爽やかな青色だ。
 庭先にテーブルセットを出し、ブラッドオレンジの生搾りを作っていたアリーナは、エプロン姿で傍にいる娘に「ねえ、お母さま」と呼び掛けられて手を止めた。
「お父さまと出逢う前、お母さまがあの伝説のキャバレー『ガット・ネーロ』で踊り子をしていたって本当?」
 腰まで伸ばした艶やかな黒髪に、黒目がちの潤んだ瞳の華やかさ。ファルコによく似た長女はもう十五、街へ出ればもれなく男から声を掛けられる美少女へと成長した。といっても男たちは皆、彼女の父親が『死神』だと知った途端に去っていくし、その様子を前に本人も「及び腰の男なんてこっちから願い下げよ」と毒を吐くばかりで、恋のひとつも未経験ではあるのだが。
「本当よ。母さまは昔、踊り子だったの。でもそんな昔の話、誰から聞いたの?」
「ナターレおじさまが言ってたの。お母さまは売れっ子で『カルマ』の構成員の中にもチップを積んで気を引こうとする人がいたって。もしかして、お父さまもお母さまのファンで、お店で口説かれたりとかしたの?」
「いいえ、ちがうわ。お父さまは母さまの舞台、一度も目にしていないはずよ」
「じゃあどうやってお父さまとお母さまは知り合ったの? わたし、前からずっと気になってたのよ。マフィアの首領であるお父さまと、よその土地からやってきたお母さまがどうやって知り合ったのか」
 アリーナは返答に困った。恋に落ちた経緯なら何度も話して聞かせたが、それ以上の話は子供たちには伝えていない。初対面でファルコが脱獄犯だったとはとても言えないし、無理やり拐われ処女を奪われて……というくだりも、一生打ち明けまいと心に決めている。
「ええと……そうね、母さまが他の男性に言い寄られて困っているところを、お父さまが助けてくれたのよ」
「えっ、ほんと!?  お父さま、マフィアなのにフェミニストとかさすがはイタリア男だわっ」
「でしょう? 颯爽と現れてね、たくましい体に真っ黒なスーツ姿がとても似合って、ひと目見てほかの男性とは格がちがうと感じたわ」
「わかる気がするわ。お父さま、あの年齢になっても引き締まった体格だし、若い頃はそれは目立つ美形だったでしょうね」
「ええ。とってもすてきだったわ。母さまに言い寄る悪い男には、銃を突きつけて『走ってくる車に正面から突っ込んで脳みそぶちまけてこい』とか『空になった頭蓋骨には牛の脳でも詰めてやる』とか言ってね……」
 言いかけて、アリーナははっと口もとを押さえた。うっかりしゃべりすぎた。娘はマフィアの子として育ったぶん、一般的な十五歳より物騒な話にも免疫はあるだろうが、それにしたってひどい台詞だ。父親であるファルコの人格を疑われかねない。
「な、なんてね。母さまちょっと、誇張しすぎちゃったわね。でも、お父さまは当時から頼もしい殿方だったのよ。立ち居振る舞いも完璧な紳士でね」
「……てき……」
「え?」
「すてき、お父さまっ! そんな台詞を言われたら、わたし、一瞬で恋に落ちちゃう。カッコ良すぎるわよ。ねえ、お父さま、引き金を引いたの? お母さまの目の前で、その悪い男をバラしちゃったりしたのっ?」
「ば、ばら……?」
「そうよね、マフィアの首領ともあろう人が一度指を掛けた引き金を引かないわけがないわよね。急所を外すなんて生ぬるいし、脳天一撃で即死に決まりよね。はぁ、触れたら火傷しそうな危険な男って最高……わたしの理想どおりの出逢いだわ。そんなファンタスティックな体験をしたお母さまが羨ましい!」
 笑顔の内側で、じわじわと血の気が引いていく。
 父親を慕うのはいいことだが、娘はマフィアの世界に毒されすぎてはいまいか。娘が恋した相手ならどんな人間でも応援したいと言いたいところだが、もし、娘がファルコのような男性と結婚すると言い出したら、全力で止めざるをえない。親なのだから当然だ。いつ命の危険に晒されるかわからない世界に、大切な我が子を簡単に送り出せるはずがない。
(わたしも、お父さまとお母さまが生きていたら大反対されたでしょうね……)
 今さらながら己の結婚を振り返り、アリーナは心の中で両親に懺悔した。今は平和だし、しあわせな毎日だけれど、危険を顧みずマフィアの身内になったことだけは反省すべきなのかもしれない。
「アリーナ?」
 すると、そこにファルコがやってくる。ブラッドオレンジを絞るから、書類の整理が終わったら庭に来てと誘ってあったのだった。白いシャツに黒のベストをまとった筋肉質な体は、ここ数年でぐっと重厚感を増した。
 ととっ、とすかさず娘が歩み寄る。
「お父さまっ。ねえお父さま、わたしの隣に座ってっ。お父さまがお母さまと出逢ったときのお話、わたしもっと聞きたいわ!」
「なんだ、どうしたんだ、いきなり」
 ファルコは娘の圧にたじろいで、アリーナに視線を投げてくる。かつて脱獄したことを娘に知られたと思ったのかもしれない。すぐに話のなりゆきを伝えようとすると「父さんと母さんの出逢い? 俺も聞きたいな」と言いながら長男がやってきた。
「母さんみたいなきれいな人、どうしたら見つかるのか知りたい」
 アリーナによく似た金の髪をひとつに束ね、涼しげなペリドット色の瞳を細めて微笑むふたりの息子は、巷では王子と呼ばれているらしい。
 いずれ『カルマ』の首領になると目されていることもあって、危険な世界に憧れる女の子たちから絶大な人気を誇っている。アリーナは正直、息子まで裏の世界に置いておきたくないのだが、決めるのは本人だ。こればかりは、歯がゆくても見守るしかない。
「どこから話せばいいんだ、アリーナ?」
「あのね、ファルコ。イガ栗さんに言い寄られていたわたしを助けてくれたでしょう? あのときのことなのだけど……」
「ああ、その話か」
 ほっとした顔で席につきながら、ファルコは言う。
「懐かしいな。あの晩のアリーナは、出来損ないの手下が言い寄るには上等すぎるシチリア一のいい女だったよ」
「まあっ。お父さまもひと目でお母さまを気に入ったってわけね」
 テーブルに頬杖をつき、ほうっと感嘆のため息をついた娘は恍惚の表情だ。アリーナにとってあの晩の出来事はそこそこ怖い思い出なのだが、娘の想像の中ではひたすらロマンチックらしい。
「わたしもそんなふうに、ピンチのときに屈強な殿方に颯爽と助けられたい!」
「ピンチなんてこないさ。いつも俺が見張っているからね」
「もーっ。お兄さまが睨むから、どの男性もみんなわたしの素性に気づいて逃げちゃうんじゃない。もちろん簡単に尻尾を巻いて逃げ出すような弱い人に興味なんてないけど、そういうつまらない輩から守ってくれる殿方には出逢ってみたいわ」
 娘の言葉を受けて、ファルコは複雑そうな表情になる。我が子も恋に憧れる年齢になったのかと、少々寂しく感じているのかもしれない。どの子も誕生以来、目に入れても痛くないほど溺愛してきたのだから無理もない。
 すると娘は、思い出したように兄の背後を覗き込んだ。
「お兄さま、あとの皆は? わたし、呼んできましょうか」
 あとの皆、というのは次女以下四人の兄弟のことだろう。出来うる限り賑やかに、大人数の家族にしたいと望んでいたふたりは、総勢六人の子供を授かった。一番下がまだ二歳と幼いので、誘拐防止の観点から、日中は腕の立つベビーシッターに付きっきりで見てもらっているのだ。
「無駄だよ。俺も呼びに行ったんだけど、遊びに夢中で出てこないんだ」
「もしかしてマフィオーソごっこ?」
「そう。だから大人向けの話をするなら今。あのさ、父さんと母さんって、どっちが先に恋に落ちたの? やっぱり父さんかな」
 娘と息子の期待のまなざしを受け、ファルコとアリーナは目を見合わせる。そして同時に「俺だ」「わたしよ」と言い、そろって噴き出した。
「ふふ、気が合うわねファルコ。でも、先に好きになったのはわたし。だってわたし、伯爵邸に移った直後にはもうファルコに恋していたもの」
「だったら俺が先だ。俺は、嵐の晩におまえが俺の耳を塞いだときに愛していると気づいた」
「……まあ。知らなかったわ」
 驚いてアリーナが頬を染めると、ブラッドオレンジを掴んだままの手を握られる。
「フ、ファルコ、手が汚れちゃう」
「かまわない」
 華奢な妻の手に口づけて、低い声でファルコは囁く。
「アリーナ、おまえはあの晩から変わらずずっときれいだ。いや、歳を重ねるうちにもっときれいになったと言うべきか」
「そんな……あなたこそ、年々すてきになってる……」
 子供たちの前だということを忘れ、見つめ合っていると、アリーナの前にグラスが置かれた。ファルコの前にもだ。情熱的な赤い果汁の表面には、空に浮かぶ雲が映り込んでいる。
「わたしたち、お邪魔ね。行きましょ、お兄さま」
「そうだな。父さん、母さん、ほどほどにね」
 いそいそと室内へ向かうふたりを呼び止めようとしたら、右手を掴んで止められた。
「せっかくの気遣いだ。大いに満喫させてもらおう」
 腰を抱かれたと思ったら膝の上に横抱きにされて、照れる暇もなく唇を重ねられる。
 乾いた風が前髪を煽りながら通り過ぎ、遅れてアリーナは目を閉じた。木々のざわめきが聞こえたが、もう夫の耳を塞ぐ必要はなさそうだった。

【了】

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