ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

妙薬は甘く苦く

 エルナがローザリア帝国の皇太子妃となって数ヶ月が過ぎた。婚礼後ほどなくして懐妊が発覚したものの、幸いにして体調が崩れることもなく、社交と慈善活動にいそしんでいる。
 雪がちらほらと降る寒い日。エルナは厨房にこもって薬湯を煮込んでいた。乾燥しきった薬草は異国から取り寄せたものだ。その薬草を調合し、水と一緒に小鍋でことことと煮詰めていく。
「……すごい色ですね」
 真っ黒になった薬湯を覗いて、侍女のマリーが顔をしかめる。
「そうね、よく効きそうだわ」
「効きそうどころか、口に入れたら卒倒しそうな色ですよ」
 マリーが全身をぶるりと震わせた。
「大げさよ、マリー。確かに眠気も飛びそうな色と香りだけれど」
「苦そうな臭いですよね。舌が痺れるんじゃないでしょうか」
 マリーの発言も、さもあらんとうなずいてしまうほど、渋みが強そうな香りが漂っている。いつも厨房にたむろしているシェフたちも、退散するほどだった。
「これは痺れ薬じゃないのよ。心肺機能を強くするという薬草と、血の巡りをよくするという薬草を合わせたの」
 義父になる皇帝は、最近、胸が痛いと侍医に訴えているらしい。少しでも回復させたいと思って、薬を調合しているのだった。
「それで、姫様はなぜその薬を煮詰めているんです?」
「一度、薬湯を差し上げてみたのだけれど、苦くて全部は飲めないとおっしゃったのよ。だから、楽に飲ませる方法がないかしらと思って」
「姫様ったら、なんておやさしい……」
 マリーが目元を指で拭う仕草をした。あからさまな泣き真似に、まなざしがつい冷たくなってしまう。
「マリー、からかうのはやめて」
「本当ですよ。皇室の嫁としても、薬師としても、ご立派です。ただ、こんなにじっくり煮込んだら、苦みが増してもっと飲みにくくなるように思うんですが」
 マリーの指摘はもっともだ。だから、エルナは自分のアイデアを披露した。
「確かにね。だから、一気に呑み込めるようにしようかと思って」
「一気に呑み込める?」
「ええ。この間いただいたお菓子を参考にして、薬湯を固形にしようかと思って」
 皇太子妃になったとたん、エルナのもとには贈り物が絶え間なく届くようになった。その中に、隣国の名物だというパート・ド・フリュイという菓子があった。これは煮詰めた果汁に添加物を加えて固め、外側は砂糖でコーティングした菓子だ。果物の酸味と砂糖の甘み、ぷるんとした食感が調和して、贅沢な気分になれる菓子だった。
「パート・ド・フリュイを薬湯で作ろうと思うのよ」
「あれを薬湯で……嫌な予感しかしませんけど……」
 マリーがひるんだ顔をする。
「そうかしら。挑戦する価値はあるわ」
 苦い薬を、仕方ないから飲んでくれというのは簡単だ。しかしそれでは、苦いから飲めないという患者の心には寄り添えない。
「患者に努力させるだけでなく、わたしも努力しなくては」
「姫様のお考えはご立派だと思いますけれど、なんというか……無謀な挑戦の気が」
 頬をひきつらせるマリーをよそに、エルナは焦げないように小鍋をかきまぜる。煮詰まってから鍋を下ろし、粗熱をとる間に、水につけてふやかしておいたゼラチンを確かめる。ゼラチンならば、プルンとした呑み込みやすい食感が生まれるはずだ。
「いい感じだわ」
「姫様。ひと休みしましょう」
 お茶を飲んで休憩してから、再び作業に取りかかる。
 薬湯の温度がゼラチンを溶かすのに最適になっていることを確認し、バットに移す。それから、ふやかしたゼラチンを薬湯に加えて固める。しばらく待つと、プルプルの固形物ができた。
「マリー、これはすばらしい弾力よ!」
「ええ、まあ、プルプルとして弾力は合格ですよね、弾力は」
 マリーがしかめっ面をして口を手で覆う。
「しかし、まずそうですよ、これは……」
「砂糖をまぶせば、なんとか呑み込めるはずよ」
 大人の親指の先くらいに切り分けてから、砂糖をまぶす。黒水晶に似た薬湯のパート・ド・フリュイが完成した。
 だが、エルナはしげしげと眺めながら素直な感想をこぼした。
「……あまりおいしそうには見えないわね」
「こんなものを差し上げたら、毒殺しようとしているのかと疑われそうですよ」
 マリーの指摘はもっともだ。しかし、希望を捨ててはならない。
「味見をしてみるわ。意外となんとかなるかもしれない」 
 ひとつつまみかけると、マリーが腕を伸ばして制止する。
「いけません、姫様! 身重のお身体には毒ですよ!」
「毒ではないわ。薬よ」
「薬でもです! その見かけと臭い……絶対に口に入れてはダメです!」
「でも、いきなり皇帝陛下に差し上げるわけには……マリーが味見をしてくれる?」
「それは無理です!」
 マリーが眉を吊り上げた。くわっと瞼を開いた顔には、なみなみならぬ気迫が満ちていた。
「これは、責任を持って皇太子殿下に味見をしてもらいましょう」
「ユリアンに? 大丈夫かしら」
「大丈夫ですよ、きっと。薬なんですから!」
 マリーは腰に手を当て、自信たっぷりに言う。エルナは少し考えた挙句にうなずいた。
「そうね。ユリアンは最近忙しいし……お薬を飲むのはいいかもしれないわ」
「姫様のおっしゃるとおりです。それに、この薬は皇帝陛下に献上する予定のもの。だとしたら、息子である皇太子殿下が味見をなさるのは、当然の義務です」
 マリーはひとり納得したようにうなずく。エルナは薬と彼女の顔を見比べて、小さな不安を覚えるのだった。
 
 
 政務に忙しいユリアンの時間が空いたのは、その日の夜のことだった。東洋から取り寄せた白磁の皿に、切り分けた薬をのせて、エルナは執務室に向かう。侍従の開けてくれた扉を抜けて部屋に入ると、執務机の前に座ったユリアンが、カップを傾けていた。
「ユリアン、何を飲んでいるの?」
「安心してくれ、エルナ。これはお茶だよ」
 彼の返答に安心する。以前、おかしな薬酒を飲みかけていたことは忘れていなかった。
「ところで、俺に用とはなんだい?」
 ユリアンは穏やかに微笑んでいる。
「なんにせよ、うれしいな。エルナが俺を訪ねてくれるなん――」
 ユリアンの言葉がふつりと途切れる。彼の視線は、目の前に置かれた皿の上に注がれていた。
「……なんだい、この黒々とした物体は」
「心肺機能を強くして、血の巡りをよくする薬湯を固めたの」
「なんのために固めたんだ?」
「飲みやすくするためよ。薬湯のまま献上したら、皇帝陛下が苦いとおっしゃって」
「つまり、これは苦い薬の塊というわけか。で、この周りの白い粒はもしや――」
「砂糖よ。パート・ド・フリュイの要領で作ってみたのだけれど……」
 エルナの返答に、彼は真顔になった。
「つまり、苦い薬の周りに甘い砂糖がくっついているわけだね?」
「ええ……」
 なんだか不安になってきた。もしや、とんでもない代物を作ってしまったのだろうか。
「で、これを俺に持ってきた意図は?」
「ユリアンに味見をしてほしくて」
「俺に?」
「ユリアンしか頼める人がいなくて……」
 自信をなくして語尾が消えかかる。やはり、自分が味見をするべきだったのではないか。
「そうか……」
 ユリアンは机に肘をついて手を組むと、薬とエルナを見比べる。
「俺にしか頼めない、か」
「やっぱり、わたしが味見をするわ」
 決意を込めて言うと、ユリアンが目を見開いた。
「それはダメだ! きっとエルナのおなかの中の赤ん坊が、びっくりしてひっくり返るよ」
「で、でも……」
「俺が味見をしよう。何、ちょっと苦いくらいの薬なら、何度も飲んでる」
 ユリアンは薬の欠片をぽいっと口に入れた。一噛みしたあと、真顔になる。
「ユ、ユリアン?」
 ユリアンの目がうつろになった。しばし、口を動かしたあと、喉を鳴らして呑み込むと、あわててカップの茶を飲み干す。
「大丈夫? ユリアン」
「……エルナ。これはこの世にあってはいけない薬だよ」
 ユリアンが苦しげな息を吐いた。
「その意味は……」
「苦い。苦いなんて言葉では足りないほど苦い。外側の砂糖の甘さにつられて噛んだとたん、苦い薬が口内に広がり舌を汚染する……砂糖の甘さが苦みを引き立てて、なんとも苦いんだ」
「まあ、そんな……」
 エルナは両手で口を覆った。ユリアンの説明が的確で、自分の口内まで苦い味を感じだす。
「そんなに苦いなんて……」
「父上に献上するのはやめたほうがいいかな。かえって心臓が止まりそうだ」
「……わたしったら、ひどい失敗をしてしまったのね」
 椅子から立ち上がったユリアンがエルナの傍らにやってくる。腰を抱くと、うつむいたエルナの顎を指で持ち上げた。
「エルナ、元気を出してくれ。被害者は俺ひとりなんだから、気にすることはない」
「でも……」
「そんなに申し訳ないと思っているなら、俺にくちづけしてくれよ」
「くちづけ?」
「いつも俺からするから、今日はエルナからしてくれよ」
 ユリアンは悪びれない爽やかな笑顔を向けてくる。エルナはごくりと喉を鳴らした。
(そうよね、お詫びは必要だわ)
 エルナは覚悟を決めると、軽く背伸びをして彼の唇に自分の唇を押し当てる。唇が重なったとたん、彼が舌をするりと入れてきた。
「ん……んんっ……」
 舌を入れられてすぐに、わずかな苦みを覚えて、エルナの身体がすくむ。ユリアンの舌はエルナの口内を巧みに動き回った。舌で舐め、くすぐられて、身体の奥が熱くなった。思わず腹を押さえると、ユリアンがくちづけをやめてエルナの顔を覗く。
「今、感じた?」
「え、ええ……」
 恥ずかしさをこらえてうなずく。腹の奥にじわりと快感が生まれたけれど、赤ん坊に悪影響があってはいけないと心配になってしまった。
「エルナは大切な身体だからね。あんまり触れられないのは残念だけど仕方ない」
 彼はエルナの唇に指を押し当てる。
「ところで、俺とのくちづけはどんな味がした?」
「ちょ、ちょっと苦かったわ」
「だろう? でも、俺が味わったのは、エルナが味わった百倍くらいの苦みだよ」
 やさしく責められて、エルナはうつむく。
「ごめんなさい、ユリアン」
「いいよ、エルナが苦い薬を俺に味見させた理由はわかっているから」
「理由?」
「俺にお詫びとしてくちづけするためだろう?」
 そう言うなり、またもや唇を重ねてくる。舌と舌をからめるくちづけに、エルナはうっとりした。
(これって、もしかして罰なのかしら……)
 だとしたら、ずいぶん甘々な罰のような気がする。
 そんなことを思いながら、エルナはかすかに苦く、たっぷりと甘いくちづけに酔いしれた。

(終)

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