ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

過日の結晶

「ねぇまだできないの?」
「時間かかるって言ったろ、その辺で本でも読んでな」
「やだ」
 背後でちょこまかとするロニエに声をかけると、にべもない返事が戻ってきた。
 正直に言えば少し邪魔なのだが、鍋を覗き込んだり自分のエプロンをいじったりしている様は可愛い。
 本人に言うとさらに張り切って邪魔をするだろうから、決して口には出さないが。
 ジャックは鍋から灰汁を取りながら、心の中でひとりごちた。
 ロニエが言ったのだ。
 昨日食べたレストランのジャムが美味しかったから、うちでもあんなのが食べたい、と。
 ジャックにとってはなんの変哲もないオーソドックスな味だったが、ロニエにはいたく響いたらしい。
 レストランから買い取っても良かったが、せっかくなので作ることにした。
 旬のベリーをまとめ買いして、砂糖と柑橘のエキスを加え一晩置いたものを、こうして今くつくつと煮込んでいる。
 しばらくの間は、ロニエもジャムを入れる瓶の煮沸を手伝ってくれていたのだが、暇になってからはずっとジャックに絡み続けている。
 単純だが、時間のかかる作業だ。
 ずっと凝視している必要はないけれど、完全に目を離すわけにもいかない。
 ロニエをかまい始めれば、すっかりジャムのことを忘れる自信があったので、ジャックは努めて視界の端をうろちょろする女を無視した。
 ジャムはまだ煮込み始めたばかりで、完成する頃には日は落ちてしまうだろう。
 そうなれば、夕飯の準備だ。
 名残惜しそうにキッチンを出て行った、屋敷の料理人にこの場を返さなければならない。
 ロニエの相手をするのは、部屋に戻ってからでいい。
 とにかく今は、ジャムを焦がさないように気を張っていなければ。
 料理人が毎日大切に手入れしている厨房だ、あまり汚すわけにもいかない。
 鍋を見つめるジャックの背中で、ロニエがエプロンの紐を丁寧に丁寧に蝶々結びにする。
 本人が不器用なため、出来栄えは微妙だ。
 布越しに当たる微かな感触に、ジャックは衝動を持て余す。
 ……誰のために、こんなせっせと働いていると思っているのか。
 そう思ってから考え直す。
 別に、ロニエは美味しいジャムが食べたいと言っただけだ。
 それを手作りしようと決めたのは、ジャックの判断である。
 ついでに言えば、それも住み込みの料理人に頼んでしまってもよかったのだ。
 ただ、ジャックはすっかりとロニエに手作り料理を与えるのが趣味になってしまっていた。
 本職の人間に比べればつたない料理でも、ロニエは喜んで食べる。
 そのときの嬉しそうな顔を見るのが、ジャックはたまらなく好きだった。
 屋敷で一緒に住むようになってからは、それを振る舞う機会も減ってしまった。
 だから今日、適当な口実をつけて料理人からキッチンを借りたのだ。
 あたりに、甘酸っぱい香りが広がっている。
 もうしばらく続ければ、灰汁も減ってくるだろう。
「危ないから、火に近寄らないでくれ」
「私のこと、幼児だと思ってる?」
「まさか」
 自分の妻を、子供だなんて思うものか。
 たとえ生活における全般が覚束なくとも、ロニエは立派な大人である。
 その上で、ロニエならうっかり熱された鍋に触れたりしそうなのだ。
「まだまだかかるけど、ずっと俺を見ているつもり?」
「うん」
 物好きな。
 鍋に浮かぶ白い泡を、散らさないようにそっとすくい上げる。
 ジャック自身は、淡々と作業をするのは嫌いではない。
 地味で長い下ごしらえなんかも、割合まめにするほうだ。
 しかしロニエのほうはといえば、かなり飽きっぽい。
 翻訳などという根気のいる作業をしているのは、奇跡という他ない。
 こうして生活の心配がなくなっても続けているのだから、本当にその仕事が好きなのだろう。
 ジャックには、そこまで熱中できるものがないので少しうらやましい。
 しかし、時折唸りながら仕事をするロニエの補佐をするのは、楽しかった。
 仕事をする彼女の横顔を間近で見られるのは、夫の特権と言うべきだろう。
 いつもはややぼんやりとしたロニエが、仕事のときばかりは真剣な眼差しで原稿を見ているのが、ジャックは好きだった。
 休憩を促すためにお茶に誘うと、その瞬間表情が一気に綻ぶのだ。
 鍋の中を確認すると、灰汁の出るペースが落ちてきている。
 どの程度水分を飛ばして止めれば、あのレストランのジャムになるだろうか。
 あまり長々と煮込むと、冷えたときには固くなりすぎてしまう。
 ジャム作りは滅多にしないので、加減に悩む。
 考え込んでいると、後ろから腰に細い両腕が回ってきた。
 背中に、柔らかい感触が当たる。
 ??俺は、何かを試されているのだろうか。
「どうした」
「いや、楽しいなぁって」
 エプロンの中に手を入れられて、シャツ越しに胸板を撫でられた。
 その動きに、含みは感じられない。
 しかし彼女が密着しているというだけで、ジャックは鼓動が少し速くなる。
「料理しているとこ、そういえばじっくり眺めたことなかったし」
 体温がじりじりと上がり始めたことを、ロニエに悟られてはいないだろうか?
 ジャックの内心など知らないロニエは、背後でほのぼのと笑う。
 煮えた鍋の中から、大きめの気泡がぽこりと上がってきた。
 甘い匂いを立ち上らせる赤い液体は、まだまだ完成しそうにない。
「ジャックってさ、料理しているときなんか良いよね」
「良い?」
「うん、かっこいい」
「俺はいつでもかっこいい」
「はいはい」
 本当のことなのだが。
 出会った頃から数年経ったとはいえ、自分の美貌が陰る気配はまだ感じられない。
 街を歩くたびに感じる視線からも、それは窺えた。
 しかしジャックにとっては、ロニエにかっこいいと思われるのが一番重要なことなのだ。
 料理をしていないときの自分が、どう思われているかは少々気になるところである。
 振り返ると、笑顔のロニエと目が合う。
 やっとジャックがこちらを見たことが、嬉しいらしい。
 思わず、そのまま彼女の唇を奪った。
 触れるだけのキスをあちこちにすると、クスクス笑い声が聞こえる。
 アプリコットの髪には、すっかりと甘い匂いが染みついてしまっただろう。
 もっとも、それはジャック自身も同じなのだが。
 ずっとキッチンの中にいるせいで、だんだんと鼻が麻痺してくる。
 彼女の柔い太ももを撫でるが、拒否される気配はない。
 もういっそ、このままキッチンでなだれ込んでやろうか。
「ジャムはいいの?」
「……よくない」
 自分から誘惑してきたくせに、ひどい女だ。
 しかし、せっかく煮込んだジャムをダメにしてしまうのは忍びない。
 自分の城を明け渡してくれた料理人にも、申し訳が立たないだろう。
 鍋の中を見る。
 あと数分も煮れば、完成と言っていいだろう。
 少し考えてから、ロニエを抱え込んでジャム作りを続行することにした。
 腕の中で、また彼女が笑う。
 今度、ロニエの分のエプロンも用意しようか。
 大して助けにはならないだろうが、こうして二人で過ごすのは悪くない。
「美味しそう、もういいんじゃない?」
「いや、もう少し」
「こんなにいい匂いなのに……」
 不満げに言われても、まだなものはまだなのだ。
「味見してみるか」
「いいの?」
「もちろん」
 そう請け負って、小皿にスプーン一杯分のジャムを入れる。
 軽く空気に当てて冷ました後に、ロニエに手渡した。
 あからさまに好奇心でいっぱいの様子で、彼女がそれを呑み下す。
「甘い」
「ジャムだからな」
 味は、お気に召したようだった。
 おかわりを求めるロニエから、皿を回収して洗い場に置く。
 彼女は、気に入ると延々と同じものを求める節がある。
 望むままにしておけば、今日の夕飯は入らなくなるだろう。
 そろそろいいかと、火を止める。
 あとは瓶に詰めれば完成だ。
「ジャックは味見しなくてよかったの」
「ん、ロニエのためのジャムだしな。お前が気に入っているなら、それで十分」
 思ったまま言葉を口にすると、ロニエの頬が赤く染まった。
 どうやら、なんらかのツボをついてしまったらしい。
 この様子であれば、押せばいけそうだ。
 もう一度口付けをして、今度は舌を絡めた。
 ジャムの味が移った彼女が、おずおずとそれに応える。
 本人は、日も高いうちからこうなるつもりではなかったのだろう。
 しかしジャックのほうは、もうすっかりとその気である。
「……部屋に戻ろう」
 耳元で囁くと、ロニエが目を伏せる。
 自分がせまるときは生き生きとしているくせに、逆のときはなぜだかしおらしい。
 あとは瓶へ詰め替えるだけではあるものの、気分が急いてしまう。
 一刻も早く彼女に触れたいが、作業は終わらせなければ。
「先に行っててくれ、すぐに向かう」
 食品を触っている間は、ろくなことができない。
 一瞬、残りの工程をすべて料理人に投げてしまうことも考えたが、こちらの趣味で厨房を借りているのに放り出して行くのはあんまりだろう。
 それにロニエは案外恥ずかしがりなので、こんな雰囲気のまま二人で屋敷を歩くのは嫌がる。
 耳を赤くして寝室に向かう彼女を見送ってから、ジャックはできるだけ急いで作業を終えることにした。

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