ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

変わるもの、変えるもの

 その日、珍しくユリウスは落ち着きがなかった。謁見の際にはそれらしく装うものの、そこにイヴしかいなくなった途端、ソワソワしてため息をつき、頻繁に時計をチラチラと見ていた。
「ユリウス、どうしたの? 久しぶりの帰郷だというのに、なぜそんなにソワソワしているの?」
 前回の帰郷は五年前。イヴを蘇らせ、婚約者として国民に公表したすぐ後だ。
 五年経てば状況も変わる。ユリウスの祖父パーヴェルはいまだ健在であったが、ユリウスの代わりに遠縁のカミル・ハルヴァートがアルスハイル領を継ぐことになった。かつてユリウスがいた屋敷の東棟は、今や彼とその妻子の住処となっている。
 ただ、様変わりした屋敷や商会に、ユリウスが哀愁を感じているわけではなさそうだ。
「時間が押している。せっかく立てた予定が狂っているんだ。本来ならば適当に仕事を片づけて、あとはイヴと観光に行くつもりだったのに。カミルがあれもこれもと押しつけてくるせいで、帳尻合わせすら難しい」
 念願の帰郷に際し、ユリウスには特別な計画があったようだ。
 冷静沈着なユリウスがこんなに心を乱している姿を、イヴはあまり見たことがない。やはり郷里というものは、誰だっていくつになったって懐かしく思えるものなのかもしれない、と微笑ましく感じてしまう。
「そうは言ったって、今回は視察という名目なのだからしょうがないわ」
 忙しなく部屋の中をウロウロ歩き回るユリウスに、イヴはなだめる言葉を投げた。だが、いいや、とユリウスは否定する。
「表向き、今回の帰郷は『視察』という対面を保っているが、本来は私たちの羽伸ばしのつもりだった。子どもたちはおじいさまが見てくださっているし、この機会にイヴの好物のマス料理をまた堪能してもらいたいと思っていたのに。紅葉も見に行きたかった、あなたが楽しめる歌劇場の演目もあった。……でも、カミルがなんでもかんでも詰め込むから、到着してまだ数時間だというのに、すでに時間が押している」
 カミルはユリウスがアルスハイルを取り仕切っていた頃からハルヴァート商会の幹部であり、二人は既知の仲だった。
 パーヴェルに後継として指名される程度にはカミルも確かに有能のようだが、融通が利かない一面があった。同じく商会で働いていた平民出身の奥方と足してようやくユリウスと同じか少し足りないくらい……と言われているらしいが、その融通の利かなさに今回悩まされてしまうとは、ユリウスにも予見できなかったようだ。
 イヴは苦笑した。ユリウスが己と同じ働きを期待するのもわからなくはないけれど、なんだって卒なくこなすユリウスと同じものを求めては、カミルのことがかわいそうに思えてくる。
「でも、ユリウスも安心できるのではなくて? カミルさまのような優秀な方がハルヴァート家と商会を継いでくださるのだから、あなたも王としての執務に専念できる」
「それは否定しない。確かにカミルは仕事のできる男だし、私も信頼しているところだ。だけど……イヴ」
 部屋をせせこましく歩いていたユリウスの足がぴたりと止まった。それと同時に己のほうへユリウスが体を向けたので、何かあるのかとイヴは反射的に立ち上がった。
「な、なに」
 コツコツ、とユリウスが靴を鳴らしながら近寄ってくる。悪いことはしていないはずなのに、どうしてか心拍数が増加する。
 ユリウスの表情に、怒りが垣間見えたような気がして、イヴはギクリとした。でも、心当たりは何もない。
 そのうちにユリウスがすぐ目の前にまで迫った。腰を抱き、体をくっつけ、額と額をコツンと当てる。イヴが見上げると、翡翠色の澄んだ瞳と目が合った。
「イヴ、私が嫉妬深いのはすでに知っていることだよね? にもかかわらず、私以外の男の名を出すというのは、どうして?」
 ――また始まったわ。
 ユリウスの嫉妬に辟易しているような言葉が頭に浮かぶが、実はまんざらでもなかった。面倒だと感じる一方で、その束縛、その執着がイヴはたまらなく心地よかった。
 せっかく顔が近くにあるので、イヴは背伸びして口を突き出し、ユリウスに口づけをねだった。もちろん、ユリウスはそれを拒むような男ではない。
 ここはハルヴァート邸の客間。しかも今は昼間であって、扉のすぐ外にはお付きの者が控えている。だからキスは軽く、簡潔に。
 ちゅ、という音と共に離れたあと、息がかかる距離のままでイヴはユリウスを諭す。
「ユリウスは間違っているわ。あなた以外の人に、わたしが心を奪われるとでも?」
「男のほうがイヴに恋をしてしまうかもしれない。だってイヴはこんなにも美しいのだから。子を産んでいっそう綺麗になった。まさしく傾国の美女だ」
 甘い言葉を囁いて、再びユリウスは口づけた。今度は先ほどよりも深い。ユリウスの温度をもっと求めたくなってしまうが、イヴは首を振った。ユリウスの言葉と己の欲求両方を、まとめて否定するためだ。
「言い過ぎよ」
「そんなことない。だって――」
 ユリウスの言葉は扉の開く音に遮られた。ノックは聞こえなかった。突然ガチャリと扉が開いた。
「失礼します、ユリウス陛下。そのままで問題ございませんので、いくつか。まず、ゲントレ・ソレク橋の再橋梁工事につきまして、他領での工事と比較しても国からの補助金が少なすぎますので補正予算を至急支出願いたく存じます。それから、今年度の官品の納入につきまして当初の予定よりも二週間多く猶予を頂きたく。先月発生した竜巻により、関連施設に被害が――」
 ノックもなしに入室してきたのは、話題に上っていたまさにその人、カミル・ハルヴァート。眼鏡のフレームを指先で上げながら、手元の資料に目を落とし矢継ぎ早にユリウスに捲し立てている。
「待て、カミル。今、取り込み中だとわからないか?」
 ユリウスがチクリと釘を刺す。イヴも隣で閉口する。
「承知しております。ですから『そのままで』と申しました」
 けれどカミルには効果がないらしい。
「三分後にはシモンがロノピアの報告書を持参いたしますので、その場で目を通してください。修正があれば明日のご出発に間に合うよう直させます」
 罪悪感や気まずさを一切持たぬ表情のまま、彼がしれっとユリウスに言い放った。
「三分後? ……本気で言っているのか?」
「もちろんです。ユリウス陛下なら、そのくらい造作もないことかと。ご確認は十二分以内に願います。こちらで検討した結果、アルスハイル領内の視察地が当初予定の三箇所から十箇所に増えましたので、すぐに出発したく存じますので」
「…………」
 まさしく分刻みのスケジュールだ。ユリウスもついに閉口してしまう。
 これが国王を相手にした態度なのか、との思いがイヴの頭を過ったが、二人は元々馴染みのあった者同士。それに、無駄に距離のある国王よりも、何だって言い合える国王のほうが健全なようにも感じられる。だとすれば、この距離も間違ってはいないのかもしれない。
 何より、ユリウスは頭の回転が早い。きっと彼なら完璧に処理してしまうだろう、とイヴは口を挟まなかった。
「イヴ」
 しばしの沈黙の後、ユリウスがイヴの名を呼んだ。そこには諦めと覚悟――しぶしぶ、というような――が入り混じっているようにも聞こえ、表情にも疲れが滲んでいた。
 けれども、ユリウスが決めたのならイヴが引き止める理由もない。
「いいの。わかっているわ。大丈夫、今回が最後ではないもの。また暇を見つけて来ましょう。わたしはあなたといられるだけで満足よ」
今回の視察はきっと羽を伸ばすこともなく、仕事漬けに終わるだろう。イヴは予感していたが、受け入れた。ユリウスの邪魔はしたくないのだ。
「……ありがとう、イヴ。この埋め合わせは絶対にするから」


 お気をつけて、とユリウスを見送り、バタバタ人が出て行ったあと、イヴはため息をつきながらソファに再び腰を下ろした。
 ――なんだかんだ言ったって、ユリウスは動いているのが好きなのだわ。わたしもそれを阻みたくないし、生き生きしているユリウスが好き。
 カミルの要望や提案を、ユリウスは全て聞き漏らさなかった。一から律儀に回答した上、シモンの持ってきた分厚い報告書すら十分もかからず読み終えた。
 その瞬間、終始無表情だったカミルがわずかに微笑んだのを、イヴは見逃さなかった。ユリウスの処理能力の高さと頭の回転の速さ、的確さが、カミルにとっても小気味よかったのだろう。
 ――さすがユリウスだわ。……でも、その隣にいるわたしは、釣り合っているのかしら。
 いまさら退こう、などとは思わない。でも、ユリウスの王としての仕事ぶりを目の当たりにするたび、イヴは不安に駆られていた。
 それはきっと、今後も消えることはないだろう。かと言って、どうすべきかもわからない。何ができるかもわからない。
 そもそも、魔女だ。本当に魔女が王妃でいいのか……。
 イヴが落ち込みかけていたところ、ふと、蝶番のきしむ音に頭を上げる。扉のほうに目をやれば、隙間から小さな女の子が顔を出していた。
「こんにちは。わたしはイヴよ。あなたは誰?」
「こんにちは。わたしは……クラーラ」
 イヴが先に声をかけると、控えめな声が返ってきた。
 クラーラとは、カミルの四歳になる娘だ。イヴは手招きをして、彼女に入ってくるよう促した。クラーラは恥ずかしそうにしながらも、イヴの近くまでやってくる。
「イヴは、おうひさま?」
「そうよ」
「おうひさまは、おうじさまのおかあさまで……まじょなの?」
「……そうよ」
 ドキリとしたが、嘘をつくこともできない。ユリウスによって魔女の印象は以前とはガラリと変わったはずだが、堂々と素性を明かすことはいまだイヴには慣れなかった。
 すると、クラーラは目をまんまるくして、頬をわずかに上気させ、両手を顔の前で合わせて嬉しそうに言ってのける。
「だとおもった! だって、だって、とってもすてきなんですもの! きせきのまじょ、おうひさま!」
 想像していた反応と違いすぎていたため、イヴはどうしていいかわからなかった。固まったままのイヴに、クラーラはかまわず語り出す。
「ひいおじいさまが言っていたの。おうひさまのおかげで、みんなげんきでたのしくて、あんしんしてくらせるのだって」
 クラーラの言う「ひいおじいさま」とは、ユリウスの祖父パーヴェルのことだ。
 パーヴェルはかつて、イヴに身を退けと求めた張本人だ。今も好かれていないと思っていたのに、幼いクラーラに好意的に言い聞かせているなんて、とイヴは信じられない気持ちだった。それとともに認められた気がして、イヴの胸が熱くなる。
「……ありがとう、クラーラ。でも、違うわ。ユリウス陛下のおかげよ。陛下が国をうまくまとめてくださったから、平和な世の中で幸せに暮らせるの」
「そうなの?」
「そうよ」
 クラーラは不思議そうにしていた。しかし難しいことはわからなかったのか、再びニッコリと微笑んで、イヴの手を取った。
「おうひさま、おちゃ会にしょうたいしてもいい? ひいおじいさまとおうじさまもいっしょなの」
「ええもちろん、喜んで」
 手には小さな温もりがあった。こんなふうに人間と触れ合え、わかり合える日がくるなんて、数年前には考えてもみなかった。
 ――着実に、いろいろと変化しているのね。わたしも変わらねば。ユリウスが用意してくれた居場所を、わたしも守ろうとしなければ……。
 ユリウスにとっては疲れるだけの帰郷となってしまったが、イヴにとってその限りではなく、内省するいいきっかけになった。
 王妃として妻として、なにより一人の女性として。夫ユリウスにふさわしい姿に少しでも近づいていこう。そんな誓いを胸に、イヴは一歩一歩踏み締めていた。

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